大内政弘
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大內政弘 | |||||||||||
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日本國従三位周防介、左京大夫,室町幕府周防・長門・豐前・筑前守護、相伴眾,周防大內家當主 | |||||||||||
前任:大內教弘 繼任:大內義興 | |||||||||||
國家 | 日本 | ||||||||||
時代 | 室町時代、戰國時代 | ||||||||||
氏 | 大內氏 | ||||||||||
姓 | 多多良姓 | ||||||||||
假名 | おおうち まさひろ | ||||||||||
幼名 | 亀童丸 | ||||||||||
別名 | 新介、大內介、太郎 | ||||||||||
法號 | 法泉寺殿直翁直正居士 | ||||||||||
出生 | 文明三年八月二十七日(1446年9月18日) | ||||||||||
逝世 | 明應四年九月十八日(1495年10月6日) | ||||||||||
墓葬 | 法泉寺 | ||||||||||
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大内政弘(おおうち まさひろ),是日本室町時代、戰國時代初期的大名。周防大內氏第十四代當主。大內教弘之子。其母是山名宗全的養女。最強盛時期,他領有周防、長門、豐前・筑前四國及安藝、石見的一部分。應仁之亂爆發后,政弘加入山名家主導的西軍一側。他的文化造詣很深,爲以後山口的文化繁榮打下了基礎。他自稱是百濟國琳聖太子的後裔。去世後由長子大內義興繼承家督。
目录
1 生涯
1.1 早年
1.2 與細川氏的關係
1.3 應仁之亂
1.4 再度上洛
2 參考文獻
生涯
早年
文安三年,政弘出生。元服時,被賜予足利義政的偏諱,加上父親教弘的弘字,改名大內政弘。
寬正六年,繼承家督,成為周防、長門、豐前・筑前的守護大名,時年十九歲。[1]。
與細川氏的關係
政弘在對於大內氏十分重要的日明貿易上與管領細川勝元有爭議,并支援與細川家不和的伊予大名河野通春。由於政弘的這些舉措,細川氏對大內氏下達了追討令,利用安藝守護武田信賢及安藝國人小早川熙平、毛利豐元來抑制大內氏的勢力。[2]。
另一方面,之前被將軍足利義政流放至周防的斯波義敏背棄了收容他大內家,於寬正六年十二月三十日上洛,取代了山名家支持的斯波義廉。由於政弘與山名宗全的親緣關係,這次事件也成為日後應仁之亂大內家參加西軍的要因。[3][1]。
應仁之亂
應仁元年,政弘作為西軍主力前往近畿[4],以後十年間一直在各地轉戰。北九州大名少貳教賴及對馬大名宗盛貞乘政弘不在而侵略筑前,但都被擊退。文明元年,政弘的叔父大內教幸受細川家與少貳家的唆使,在赤間關(現在的下關市)謀反,政弘得知消息後命令益田貞兼極速返回領內,與留守的重臣陶弘護一起鎮壓反亂。憑藉陶弘護的努力,大內家於文明四年平定了教幸之亂。
應仁之亂結束后,政弘歸國。其領地周防、長門,安藝的東條、西條、石見國仁摩郡等全部保持原狀。文明十年,政弘出兵九州征討少貳氏,獲得了豐前、筑前二國。他還迫使安藝、石見的國人眾臣服,又平定了北九州及瀨戶內海的海賊眾。權傾西國。
再度上洛
文明十二年,成為了幕府相伴眾。長享元年,政弘派遣家臣問田弘胤作為代理參加足利義尚對近江國六角高賴的討伐。延德三年,親自上洛幫助將軍足利義稙討伐六角高賴,明應元年,政弘的嫡長子大內義興上陣。三年,政弘罹患中風惡化,將家督讓予義興。明應四年,政弘卒。享年五十歲。
參考文獻
^ 1.01.1 歴史群像シリーズ特別編集 毛利戦記 復刻版(2010年・学習研究社)p16-17 大内概略〜義隆登場以前 文/光武敏郎
^ 幕府及び勝元は安芸東部の東西条を領有する大内氏を警戒し、安芸中央部の領主である安芸武田氏や毛利氏・吉川氏・沼田小早川氏を支援していた。大内氏も対抗して竹原小早川氏・平賀氏・厳島神主家らと手を結び、教弘の代から衝突を繰り返した。広島県、P439 - P443、石田、P186 - P187。
^ 寛正6年10月22日に幕府は勝元の要請で政弘退治の書状を出したが、翌文正元年7月30日に政弘を赦免している。この赦免後に義敏が3ヶ国の守護に返り咲いていることから、幕府は勝元と宗全に対抗して大内氏と斯波氏を取り込もうとしたとされる。但し、義敏はすぐに家督を追われ、政弘は領国に留まったままになる。石田、P187 - P194。
^ 《應仁記》大內介上洛之事條:聞京都既破,大內介政弘其勢二三萬騎上洛
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